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令和6年(2024年)10月20日(日) / 南から北から / 日医ニュース

わの津軽弁遍歴

 私の両親は秋田県出身で、ほぼ標準語を話しています。私は弘前で育ちましたが、幼少期は津軽弁に接する機会は少なかったと思います。
 しかし小学校入学で状況が一変しました。クラスメイト達がつばを飛ばしながら強烈な津軽弁で話し掛けてくるのです。「これ何語?」と驚きと恐怖を感じました。それでも同じ環境で成長するうちに津軽弁が徐々に身に付き、高校卒業時には大層な津軽っ子になっていました。
 大学は東京の順天堂大学に進学しましたが、自分があまりに田舎者だったので、可能な限り津軽弁を封印しておりました。そんなある日、私の青春に激震が走る事件が起きました。
 それは上京して間もない大学1年生の初夏でした。福島県出身のクラスメイトの友人Sと混み合う山手線に乗って世間話をしていたところ、彼が急に黙りこくってしまいました。電車を降りた後、Sは言いました。「近江の訛(なま)りがひどく、周りの視線が気になって話をやめてしまった」。
 私は震撼しました。自分では標準語をしゃべっていたつもりが、実はバリバリの津軽弁イントネーションだったのです。津軽弁のボキャブラリーは隠せても、イントネーションの矯正は難しいものです。自分ではそれが自覚できておらず、電車の中で私の津軽訛りが響きわたっていたのです。ああ、私は東京人失格でした。
 友人Sもひどいものです。今思えば彼の福島訛りも相当でしたが、福島の方が若干東京に近いからといって東京側に付き、私を田舎者扱いしたのです。同じ東北人なのに何という裏切りでしょう。私は東京の中心で「どんだんずよ」と叫びました。小声で。
 こんなことを書くと君には津軽人の誇りがないのか?と言われそうです。今でこそ王林さんのようなご当地アイドルが、津軽弁をむしろ武器に躍進しておりますが、当時19歳の私にまだそんな度胸は無かったのです。
 何とか標準語をしゃべれるようになりたい。キムタクみたいな東京人になりたい。編み出した方法が、東京出身の同級生達がどのようなイントネーションで会話しているのか記憶し、自分が話す前に心で復唱してから話すというものでした。これは功を奏しました。
 また当時サッカー部に所属しておりましたが、グラウンドまで車で片道1・5時間の過酷な環境でした。長時間の移動となるため、下級生は上級生(ほぼ関東圏出身)に面白い話を提供しなくてはいけないという暗黙のルールがあり、必然的に私の標準語は鍛えられました。
 大学5年生になったある日、ついに鍛錬の成果を確信しました。山形県からの新入生Nが「近江先輩のような東京出身の人のように標準語を話したい」と言ったのです。私は一瞬耳を疑いました。新入生Nは私と3カ月も同じサッカー部で過ごしているのに私を東京出身だと思っていたのです。それは私が標準語を話している証拠ではありませんか! ついに東京人になれた。合コンで涙をのんだ日々よ、さようなら。こんにちは、新しい私。
 面白いもので、いったん標準語を獲得すると津軽弁を恥ずかしいと思わなくなり、標準語と津軽弁を3秒おきに切り替えてしゃべるなどの芸も獲得しました。現在はと言うと、もちろん仕事中ずっと患者さん達とのディープな津軽弁にどっぷり浸かり、その濃度は深まるばかりです。

(一部省略)

青森県 弘前市医師会報 通巻413号より

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