一九九九年一月の横浜市立大学の患者取り違え手術以来,頻発する医療事故の報道によって,国民の医療に対する信頼が崩れてきている現状は,憂慮すべき事態である.
ナイチンゲールの言葉にもあるごとく,医療の原点は「患者に障害を与えないこと」であり,「安全な医療」である.日本の医療制度は,世界に類を見ないすばらしい制度であるが,一方で,この国民皆保険という護送船団方式で保護されてきた医療界には,医療の質の向上や患者さんの安全への管理を高く評価するインセンティブが働く仕組みが作られてこなかったのも事実である.
患者さんの安全が守られる医療を構築するには,どんなことが考えられるかを述べてみたい.
人間は誤りを犯す動物であるから,エラーが起こりにくい仕組み作り(エラーレジスタント)と,エラーが起こっても大きな事故には発展しない仕組み作り(エラートレラント)を常に念頭に置いて,病院のシステムの構築を考えるべきである.それには,「失敗から学ぶ」姿勢が最も重要なことである.それが,インシデントレポーティングシステムである.
これらの事例をSHELモデルで分析して,当事者を取り囲むソフトの問題,ハードの問題,環境の問題,周囲の人々とのコミュニケーションの問題などのどこに不具合があって事故が起きたのかを明らかにし,その改善策を検討して病院のシステムの修正にフィードバックして再発防止を図るべきである.
航空業界では,CRM(Crew Resouce Manage-ment)がヒューマンファクターの観点から航空機の安全を守るための方法論として使われている.これは,状況認識,問題解決,意思決定,コミュニケーション,ストレス・マネジメントなどの各能力を訓練することである.これらは,すべて医療界でも必要であるが,エラートレラントな組織作りで最も大切なことは,医療従事者の間のコミュニケーションであり,医療従事者の間(医師―看護婦,医師―技術者,看護婦―技術者)の人間関係を,それぞれは役割分担であり,人間としては注意をしあえる並列な人間関係に変えていくことである.
このような人間関係があれば,例えヒューマンエラーが起こっても,身近な人に注意をしてもらうことと,注意を受け入れる謙虚な心さえあれば,大きな事故に発展しないで済むのである.これらの作業を進める基礎には,まずインシデントレポートの報告が必要である.
医師は,報告することに不安をもっている.それは,次の事柄に整理できる.
(一)インシデントレポートが法的に保護されていない不安.
(二)医療は医師の指示で行われるから,事故の責任は全部医師にかかってくると思っている不安.医師には,事故はシステムの不備から誘発されているとの認識が乏しい.
(三)医療はリスクを背負いながら進歩してきた.この進歩した医療の成果を国民の大部分は享受している.この医療の進歩のプロセスに含まれる数%のリスクも医療者側のみの責任と負担になるのかという疑問.その成果を享受した国民全員で分かち合う気持ちが必要ではないかという疑問.
(四)事故には避けられるものと避けられないものとがある.避けられないものも,医療者側の責任にされるのではという不安.
医師の不安を解消して,患者さんの安全を確保するには,国家的な取り組みが必要 |
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医師から正確な情報を集めて問題点を整理し,その再発を防止する改善策を他の医療機関に提供する国家的なシステムの構築が必要である.そのために,次のようなことを提案したい.
(一)患者さんの安全のための情報を収集する第三者機関を設立する.
(二)まずは,一定規模の限られた病院群(約四百ある臨床研修病院が適当と思うが)で統一したシステムによりインシデントレポートを収集,分析する.それを第三者機関が収集,整理,分析して,その成果を全国の医療機関に発信する.これらの病院は,研修医の教育を担っていることと,事故情報を集めてその再発防止策の開発に,人,物,金,知恵,エネルギーを使うことに対して経済的な支援(例えば,保険点数一点単価十一円にする等)をす
る.
(三)第三者機関は,医師,看護婦,薬剤師,医療関連メーカー,法律家,ヒューマンファクターの専門家,市民代表,保険者などで構成する.
(四)事例の分析,原因の究明,改善策の提示,避けられる事故と避けられない事故との判断.避けられない(不可抗力)事故については,国民全体で負担を分かち合う救済システムを考える(患者,医師,看護婦を対象).医療界における労災保険に相当するものが必要と考える.
(五)基金は,医療界,保険者,国,保険会社等で考える.
(六)患者さんも医療従事者も安心できるシステム作りなくして,今後の医療の発展はない.