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第1227号(平成24年10月20日) |
日医に求める「医療健全化のための提言」
川崎市立井田病院 鈴木 厚
かつての医師は,ヒポクラテスの誓いを医の原点として暗唱していた.「患者優先,患者のための治療のみ」,つまり患者第一主義を神に誓っていた.しかしこれが医師の独善的父権主義と非難され,代わりに優等生が書いた病院理念の合唱となった.
上から目線の昭和は遠くなり,医師の視線は下からになり,最近ではコンピュータ画面に釘付けとなった.「医師はコンピュータの画面ばかり見ている」と批判を受けるが,見ているのではない.見ながら考えているのである.データの見過ごし,キーの押し間違いが生死に関わるため,医師は医師生命を賭けてキーを押すのである.批判するなら,患者の顔を見る時間をつくって欲しい.
平安時代の昔から「医は仁術」,すなわち「医は命を救う博愛の道」とされてきた.
しかし現在,その句は廃れ,あの軽蔑句「医は算術」が「医の効率化」と名を変え,日本の医療を意のままにしている.特に病院では何々加算,診療報酬の裏読み解釈,人件費削減,入院日数短縮など,生き残りに必死である.そしてその代わりに,寄り添う医療は劣化し,医の心は冷たくなった.患者最優先の標語を掲げても,寝不足の勤務医にとっては,過重労働を使命感に転化させる経営用語と映ってしまう.
かつての病院トップは,部下の勤務医を仲間として守ろうとした.しかし今では,何かあれば当事者を当局に差し出し,一件落着の保身管理主義である.院長は医師確保や人間関係のトラブルに翻弄(ほんろう)され,勤務医は将棋のコマ扱いに,やる気を無くし,医師たちの帰属心や連帯感は希薄になった.
医師の資質を発揮出来る医療環境を
医師ならば患者救済は当然であるが,なぜわが身を削ってまで,深夜の軽症患者への対応なのか.成功率一〇〇%の手術などあり得ないのに,なぜ訴訟を恐れながらの手術なのか.人間として弱者救済は当然である.患者のためなら自己犠牲も厭(いと)わない.しかし善意ある医療行為を悪行とされるのならば,誇り高き職業意識もぐらついてしまう.
病院長が経営に悩むのも,勤務医が激務から心が折れるのも,開業医が二十四時間五十円で縛られるのも,患者の高齢化,医療の高度化,医療費負担増,医師不足,そして国の財源不足による.医療環境が激変したのだから,医療も変わるべきだが,医師だけが環境変化の重荷を背負わされている.
医学部入試の小論文では「医の倫理」「終末期医療」「遺伝子治療」「患者の自己決定権」などが問われるが,医療現場では常に切迫した難問に直面している.
小論文は医師の資質を問うためであるが,医師の資質よりも,医師の資質を発揮出来ない医療環境を何とかして欲しい.小論文の模範解答より,苦悩する医療現場の解決策である.
ノーと言える勤務医に
かつての医師は医の道を神に誓っていれば良かった.しかし現在,医療は神の領域を超え,人情も廃れ,法律も馴染(なじ)まない.更に理不尽な行政,患者クレーム,無責任な責任追及,需要・供給のアンバランスが医療を荒廃させている.
ここで期待するのは,日医による医療健全化提言である.勤務医の意をくんだ日医が,医療のあるべき姿を提言し,国民の代表が裁判員制度のように審査し,その結果を実行して欲しい.裁判員制度は法律専門家のみによる判断に国民の常識的感覚を取り入れるために導入されたが,医療においても「日医の提言と国民の常識的判断」の方が,専門家同士の綱引き議論より良いのではないか.あるいは討論型世論調査の改良版でもよい.
日医は国民のため,TPP(環太平洋連携協定),混合診療などにノーと言える存在になっている.
私たち勤務医も,人間として,国民として,医師として,正論と良心に従い,「ノーと言える勤務医」になりたい.より健康で元気な勤務医になるためにも,力強い提言を日医に期待する.
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