医師のみなさまへ

医の倫理の基礎知識 2018年版
【医師の基本的責務】A-7.医学・医療の不確実性と医の倫理

樋口 範雄(武蔵野大学法学部特任教授、東京大学名誉教授)


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 今からおよそ200年前、ゲーテの名言に次のようなものがある。

 「医者をほんとうに信頼することができないのに、しかも医者なしではやって行けないところに人間の大きな悩みがあります」(高橋健二編訳:ゲーテ格言集.新潮文庫、東京、1807:142)。

 なぜほんとうに信頼することができないかというと、その当時の医学が確実に何かいえるほどのものでないことを、ゲーテに限らず多くの人が知っていたからである。

 ところが、20世紀の医学・医療の進歩の結果、ごく最近では人々の認識が変わった。たとえば、森岡恭彦『医学の近代史―苦闘の道のりをたどる』(NHK 出版、東京、2015)という本の帯には、「医師が病気を治すことはいつから当たり前になったのか」と書かれているのである。実際、今では、かつては子が生まれなかったカップルに子が授かり、かつては死んでいた患者がその後も命を長らえる例を目にすることができる。

 しかし、他方で、医師を含む医療従事者の大半は、まだまだ医学がまだまだ不確実な科学であり、ほとんどの場合、統計的な確率でいえることだけを根拠にevidence based medicine(証拠に基づく医療)と称していることを知っている。それに対し、患者の方では、他人が治った例を頼りに自分も確実に治してもらえるものと期待することが多い。その間には大きな乖離があり、医師と患者の間の誤解を生む原因ともなっている。

 医学・医療がまだまだ不確実なことであるのに、患者や家族等は、それが科学であり、一定の医療行為を適切に行えば必ず一定の効果が出るはずだと期待することの間のギャップは、以下のような場面で問題を生じさせる。

 第1に、臨床の場面。患者は、さまざまな検査を受ければ自らの病を診断することができるはず、さらに適切な治療を受ければ、末期の診断(手遅れという診断)でない限り、治癒や最悪でも現状維持が可能と考えたがる。医師の方は必ずしもそうではないことを説明し、場合によってはそういう期待がかなわないリスク(治療がうまくいかないリスクや副作用のリスク)を患者に説明し、患者が理解したうえで提案する治療を受けるあるいは断る機会を与えるのが、インフォームド・コンセントだが、患者・家族等は、それを十分理解せず、あるいは理解できず、よくない結果がでた場合に、時によっては争いが生ずる(診療に問題があったのではないか、少なくとも十分な説明を受けていなかったとする医療過誤訴訟など)。それに対し医療側では、説明を受けて理解しましたという欄にチェックしてもらう同意書に患者のサインをもらうことを重視することになる。

 第2に、医学研究(臨床研究)の場面。医学研究が必要であり、またそれが医学の進歩のために重要であること自体が、医学・医療がまだまだ不確実な性格のものであることを示す。より確実なエビデンスを求めて行うのが医学研究である。したがって、患者を被験者にする場合、まさにその不確実性を十分に分かってもらわなければならない。しかも、動物実験だけでは人に適用して同じ結果になるとはいえないので、最終的には、新たな治療や薬について人で試すほかはない。その際に、科学としてのデータを得るためには、被験者を2つのグループに分けて、一方にはプラセボ(偽薬)を与えることも必要となる。

 だが、患者・家族等は、新たな試みに期待して自ら、または医師との関係性によって、同意を与えざるを得ない状況に陥る可能性がある。医療者の方では、患者のための診療を行う立場の医師ではなく、研究者としての医師となるので、自らの名誉欲や社会のため・医学の進歩のために働くという異なる立場に身を置くことになり、さらには金銭的なインセンティブ(製薬会社からの経済的利益や特許権の取得など)が生じ、利益相反の状況に陥る。それが大きな問題を引き起こした歴史が、ジュネーブ宣言やヘルシンキ宣言、さらにはさまざまな事件となって現れている。

 そこには避けられない倫理的課題があり、研究倫理指針の遵守が求められている。さらに2017年には臨床研究法が制定され、未承認または適応外の医薬品・医療機器等を用いた臨床研究および医薬品・医療機器等の広告に用いられることが想定される臨床研究を特定臨床研究と呼んで一定の基準を遵守することが法的に義務付けられた。ただし、単に指針や法律を遵守するだけでは解決できない、不可避の倫理的課題がそこにあり続けること、その根本に医学・医療の不確実性があることを忘れてはならない。

(平成30年8月31日掲載)

目次

【医師の基本的責務】

【医師と患者】

【終末期医療】

【生殖医療】

【遺伝子をめぐる課題】

【医師とその他の医療関係者】

【医師と社会】

【人を対象とする研究】

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