医の倫理の基礎知識 2018年版
【医師と社会】G-5.医療における無過失補償制度
今村 定臣(前日本医師会常任理事)
わが国では医療事故に基づく被害の救済は、原則として過失責任制度によって処理されている。いわゆる「過失なきところに責任なし」である。民法第709条に基づく不法行為裁判でも、行為者の過失とその結果との因果関係の存否が責任の判断基準になる。これは民法の債務不履行責任についても同様であり、この基本理念は今後とも継続して適用されると思われる。
一方で、多くの医療事故では医学の進歩とともに患者側が医師の過失を立証することはきわめて困難であり、また医師側としても過失とは考えられないが、期待に反した結果に終わった場合に何らかの補償が考えられてよいという感情は否定できない。また、裁判となれば長期にわたり、その間被害者の救済は棚上げされてしまうことになる。
日本医師会は昭和45年~46年にかけて医療事故の分析を行い、昭和47年3月に「『医療事故の法的処理とその基礎理論』に関する報告書」をまとめ、3つの重要な提言を行っている。
第1は、医療事故が発生した場合は、過失の存否という法律学的判断に医学的判断が反映する厳格な審査機構をもった、医師賠償責任保険制度を全国的規模で実施すべきという提言である。
第2は、医師として過失がないのに不可避的に生ずる重大被害に対しては、国家的規模での損失補償制度を創設し、これに対する救済を図ること。すなわち、無過失補償制度の創設の提言である。
第3は、現行裁判制度と別個に国家機構としての紛争処理機構の創設の提言である。
この第1の提言を基に、昭和48年7月に「日本医師会医師賠償責任保険」制度が発足することとなった。この制度は日本医師会の社会的責任として行うもので、自らが保険契約者となり、A会員の全てが被保険者となる仕組みとなった。また、第三者的な立場から、適正に医師の過失の有無を判定する機関として「賠償責任審査会」を設け、日医独自の医師賠償責任保険制度が誕生したのである。本制度も平成30年度で46年目を迎え、その間、制度内容の改訂、特約保険の創設(任意加入)などを行い、会員が安心して医療提供できる健全な制度運営を続けている。
第2の提言は、医療行為において、医師には過失がないのに不可避的に生ずることがある患者の障害に対してのいわゆる無過失補償制度についてであるが、この問題について日本医師会は、平成16年にプロジェクト委員会を設置して検討を行い、同委員会はニュージーランドやスウェーデン等海外での実施事例等も研究したうえで、わが国の現状を考え、「理想像としては全医療に無過失補償制度を実施することが望ましいが、基金面での限界もあることから、最も緊急度が高い『分娩に関連した脳性麻痺に対する補償制度』の先行実施を求める」内容の提言を平成18年に行った。さらにその年、この提言を具体化させるために、安心して子どもが産める環境整備を行うことを制度理念とした「分娩に関連する脳性麻痺に対する障害補償制度」の具体案を作成した。
日本医師会は、この制度の早期実現を目指し、関係各方面に精力的な働きかけを行い、その結果、平成21年1月1日、日本医療機能評価機構を運営組織とし、全国の分娩機関の加入を得て、「産科医療補償制度」が発足した。
この制度の目的は、分娩に関連して発症した重度脳性麻痺児とその家族の経済的負担をすみやかに補償するとともに、脳性麻痺発症の原因分析を行い、再発防止に資する情報を提供することなどにより、紛争の防止・早期解決および産科医療の質の向上を図ることである。
本制度は平成27年1月に補償対象となる脳性麻痺の基準、分娩機関の掛け金等の見直しを行っており、制度開始以来、平成29年12月現在で2,233件を補償対象として認定している。
現在、わが国では医療による障害について、いわゆる無過失補償制度あるいはきわめて近い制度の主なものとして以下の制度がある。
①予防接種健康被害救済制度:予防接種法に基づく制度
②医薬品副作用救済制度:医薬品副作用被害救済基金法(平成16年より独立行政法人医薬品医療機器総合機構法)に基づく制度
③生物由来製品感染等被害救済制度:独立行政法人医薬品医療機器総合機構法に基づく制度
④産科医療補償制度
⑤献血者健康被害救済制度
なお、第3の提言については、医学的判断が正しく法的判断に反映し得るような紛争処理手続きの確立を求めたものであるが、適切かつ迅速な医療訴訟を実現するために平成13年から東京他10の地方裁判所に医療集中部が設置され専門的知見を要する事件への対応が強化されている。
(平成30年8月31日掲載)
目次
【医師の基本的責務】
【医師と患者】
【終末期医療】
【生殖医療】
【遺伝子をめぐる課題】
【医師とその他の医療関係者】
【医師と社会】
【人を対象とする研究】