医師のみなさまへ

医の倫理の基礎知識 2018年版
【人を対象とする研究】H-7.ES細胞、iPS細胞、幹細胞の利用

橳島 次郎(生命倫理政策研究会共同代表)


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 人の胚(受精卵)の内部細胞塊から、体中の細胞に分化できる多能性を持つ幹細胞=ES細胞(胚性幹細胞)の樹立に成功したとの論文発表があったのは、1998年11月のことだった。同時期に、同等の多能性を持つ幹細胞(EG細胞)が死亡胎児の始原生殖細胞から樹立できたとの論文も発表された。

 再生医療研究はこのときから始まったといえるが、それはまた重い倫理的課題の始まりでもあった。胚を壊して作るES細胞や、人工妊娠中絶による死亡胎児由来のEG細胞の研究は、人の生命の始まりを犠牲にする行為として、キリスト教保守派を中心とした社会勢力から激しい反対を引き起こした。日本では欧米ほどの世論の反発はなかったものの、政府が倫理指針を設けて研究を管理する慎重な姿勢が取られた。その際、EG細胞の研究は、問題が多いとして承認が見送られた。

 その後2002年に、骨髄の間葉系細胞に多能性を持つ幹細胞が含まれることが発見され、いち早く臨床応用されるに至った。患者自身の体から採取できるので、医学的、倫理的ハードルが低かったためである。日本でも閉塞性動脈硬化症に対する骨髄幹細胞移植が先進医療に認められている。ただ骨髄由来幹細胞はES細胞に比べ増殖能と分化能が弱く、治療に用いるには限界があった。

 そこに新たに登場したのが、2007年にヒトで樹立されたiPS細胞である。皮膚など通常の体細胞に、四種類の遺伝子を組み込んで多能性をもつ幹細胞に再プログラミングできるという発見は、生物学の常識を覆す偉業であった。そしてそれ以上に、胚や胎児などの、人の生命の始まりを犠牲にせずに作れるiPS細胞は、それまで再生医療研究に伴っていた倫理問題を回避できるという理由でも、大歓迎された。iPS細胞研究は、再生医療の倫理問題の状況を大きく転換させたという点でも、画期的だった。

 ただiPS細胞の利用にも倫理的問題はある。特定の遺伝子を組み込むとなぜ多能性幹細胞に再プログラミングできるのか生物学的な基礎が解明されていない現状で、iPS細胞の安全性とリスクを、どこまで評価できるか、リスクをどこまで許容してよいかを、どう判断するかが、問われる。これは2014年11月から施行された再生医療等安全性確保法に基づき審査を行う、特定認定再生医療等委員会に課された課題である。

 また、iPS細胞から生殖細胞(精子、卵子)を作成する研究が慎重な管理の下で進められているが、それが成功した暁には、生殖補助医療への応用が認められるかが問われる。たとえば、男性不妊患者の皮膚からiPS細胞を経て精子を作り、あるいは女性不妊患者から同様にして卵子を作って、人工授精や体外受精に用いてよいだろうか。

 さらに、iPS細胞の登場以降も、ES細胞の利用は重要性を失っていない。海外ではヒトES細胞から作られた網膜、神経、膵島細胞などを用いた再生医療の臨床試験が進められている。日本でも、医療目的でのES細胞の利用が2017年に認められ、京都大学と国立成育医療研究センターで医療用ES細胞の樹立計画が承認された。これにより、再生医療研究を行う機関に提供配布が始まる運びである。ヒト胚を滅するES細胞の新たな樹立が続くわけで、人の生命の始まりを犠牲にするという元の倫理的問題は残ることとなった。

 多くの期待が寄せられる幹細胞医療の研究開発を適正に進めるためには、規制緩和だけではいけない。推進に向けた功利主義的な考え方に対し、どのような医の倫理を対置するべきか、検討する必要がある。

(平成30年8月31日掲載)

目次

【医師の基本的責務】

【医師と患者】

【終末期医療】

【生殖医療】

【遺伝子をめぐる課題】

【医師とその他の医療関係者】

【医師と社会】

【人を対象とする研究】

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