医の倫理の基礎知識 2018年版
【医師と社会】G-3.医療事故とADR(裁判外紛争解決手続)
大磯 義一郎(浜松医科大学医学部法学教授)
ADR(Alternative Dispute Resolution)は、「訴訟手続によらずに民事上の紛争の解決をしようとする紛争の当事者のため、公正な第三者が関与して、その解決を図る手続をいう」(裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律1条)と定義されている。
民事訴訟手続きは、私人間の紛争を解決する手段として、人類が長年の試行錯誤によりつくりあげた合理的かつ公正な手続きである。しかし、あらゆる私人間の紛争にとって最適であるわけではない。特に民事医療訴訟においては、高度の専門性ゆえに審理期間が長期化する(2016年においては民事訴訟全体:8.1か月vs医事関係訴訟:24.2か月。ともに2016年裁判所ウエブサイトより)ため当事者への負担が重いこと、当事者主義、弁論主義等民事訴訟の諸原則より必ずしも真実が明らかとなるとは限らないこと、あくまで金銭的賠償責任の判断しかできないこと、何より診療中は医師・患者関係という信頼関係の下で動いていたものが、医事紛争となると対立当事者関係に急きょ切り替わることから、どのような結果となっても双方に感情的なしこりを残しやすいことなどから、患者側、病院側双方にとって十分満足ができるものとはいえない。
そのような背景を受け、近年では、医事紛争の解決手段として、ADRが脚光を浴びている。現在行われている医療ADRは、行われる場所により院内ADRと院外ADRに分けられる。
院外ADRは、医師会や弁護士会等が主導して行っており、当事者より持ち込まれた事例に対して、第三者が介入して紛争の解決を図るという調停、斡旋手続きを裁判外で行う手続きが多いのが特徴である。
一方、院内ADRは医療機関内において、専門的トレーニングを受けた医療対話推進者(医療メディエーター)が患者・家族と医療者が向き合う場を設定し、対話を促進することを通して関係再構築を支援するという形式が主流となっている。
両者の最大の相違点は、院外ADRが主に金銭的賠償責任の有無に焦点を当てているのに対し、院内ADRでは、事実関係の調査に基づく医療側と患者側との信頼関係の再構築、傷ついた患者・家族および医療者に対するケアに焦点を当てている点である。
現在、医事紛争の迅速、適切な処理のためこれら院内ADR、院外ADRが行われているが、さらに進んで、無過失補償制度の導入も段階的に進んできている。医薬品による健康被害に対する無過失補償制度は歴史が古く、1976年に予防接種健康被害救済制度が創設され、1979年には医薬品副作用被害救済制度が創設されており、無過失補償制度が整備されている。
一方、医療行為に関連した健康被害については、2008年に重度脳性まひ児に対する産科医療補償制度が創設されたばかりであり、今後、補償領域の拡大が待たれている。
金銭的補償を民事訴訟手続きで行うためには、過失責任主義(過失なければ責任なし)により、病院側の過失を主張・立証する必要がある。しかし、この点が、患者・家族にとって大きなハードルとなっており、高度に専門的な領域である医療紛争が長期化する原因でもある。同時に、過度な紛争化が萎縮医療・防衛医療、さらには医療崩壊を招くことはわが国でも経験しており、医療アクセスの低下や高コスト化といった不利益を生じさせている。
国際的にも、医事紛争を訴訟手続きによって解決することのデメリットの大きさから、EUを中心に無過失補償制度の導入が広まっている。無過失補償制度を導入することにより、患者・家族に対する早期かつ広範囲への補償ができるうえに、「対立当事者による紛争」というフレームを回避することができることから、医療安全(再発防止)の推進にも、信頼関係の再構築(共感、謝罪)、グリーフケアの推進にも寄与する。
民事医療訴訟の急増を防ぐために、速やかな無過失補償制度の拡大及び、院内ADR、グリーフケアの充実が求められる。
(平成30年8月31日掲載)
目次
【医師の基本的責務】
【医師と患者】
【終末期医療】
【生殖医療】
【遺伝子をめぐる課題】
【医師とその他の医療関係者】
【医師と社会】
【人を対象とする研究】